奈良県神社庁

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よくある疑問・質問

皆さまからお寄せいただくよくある疑問・質問と回答をまとめました。
そのほか神社に関することでご不明な点がございましたら、お気軽にお問い合わせ下さい。

  1.  神道(しんとう)について教えて下さい。
  2.  「○○神宮」「○○神社」の名称について教えて下さい。
  3.  氏神様と崇敬神社の違いについて教えて下さい。
  4.  神社本庁について教えて下さい。
  5.  参拝作法の起源について教えて下さい。
  6.  玉串(たまぐし)の捧げ方について教えて下さい。
  7.  お賽銭について教えて下さい。
  8.  「おみくじ」について教えて下さい。
  9.  絵馬について教えて下さい。
  10.  祭典参列の服装について教えて下さい。
  11.  金品をお供えするときの表書きの書き方について教えて下さい。
  12.  地鎮祭について教えて下さい。
  13.  仏教と神道の葬祭の違いについて教えて下さい。
  14.  服忌(ぶっき)について教えて下さい。
  15.  服忌期間中の神棚のお祀りについて教えて下さい。
  16.  葬祭に参列する際の服装と、玉串料の水引について教えて下さい。
  17.  神棚を祀る方角について教えて下さい。
  18.  毎年暮れになるとお神札(ふだ)を新しく替えるのはなぜですか。
  19.  伊勢の神宮と全国の神社との関わりについて教えて下さい。
  20.  神宮大麻(じんぐうたいま) その①神宮大麻について教えて下さい。
  21.  神宮大麻 その②歴史について教えて下さい。
  22.  神宮大麻 その③薄紙で包まれていますがなぜですか。
  23.  皇室と神社のお祭りの関わりについて教えて下さい。
  24.  建国記念の日(紀元節)
  25.  大安や仏滅など日の吉凶について
  26.  神道には仏教でいう盆行事はあるの?
  27.  氏神様の総代とお寺の総代を兼ねることはおかしなこと?
  28.  神社ではなぜ数え年?
  1. 神道(しんとう)について教えて下さい。
     神道の起源はとても古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念です。このため、キリスト教のキリストのような開祖はいませんし、「聖書」のような教典もありませんが、『古事記』や『日本書紀』、『風土記』などにより、神道の在り方や神々のことを窺うことができます。
     日本人の生活と深い関わりのある神道は当初から宗教や宗派として認識されていたわけではなく、仏教が大陸から伝来したのち、それまでの我が国独自の習慣や信仰が御祖神(みおやがみ)の御心に従う「かむながらの道(神道)」として意識されるようになりました。神社の創立の由来はとても古く、それぞれの土地や氏族の神話的な淵源に根ざしたものです。
     日本人の民族性とも共通することですが、神道の特色の一つとして、外来の他宗教に対する寛容さを挙げることができます。神道は仏教や儒教・道教などとも習合し、中世から近世にかけてさまざまな思想的な展開が見られ、我が国の文化に大きな影響を及ぼしました。しかし、我が国独自の神観念は変らず、現在まで脈々と受け継がれています。
     さて、我々が生活する地域の氏神様を含めて、神社は全国至るところにあり、八百万(やおよろず)の神といわれるほど多くの神々が森厳なる神社の境内の中にお鎮(しず)まりになられています。これは我々が生活を豊かに育んできた自然の中に神々の姿を感じ、畏敬の念をもって接してきたことによります。こうした自然との調和を大切にする神道は、より良い自然環境を次世代に継承させるという観点からも、今後更に重要となるのではないでしょうか。
     また、神道の特色の一つとして神々を敬い祖先を大切にする(敬神崇祖・けいしんすうそ)といった考え方があります。これは神々が他の宗教のように隔絶された御存在ではなく、我々の御祖神として深い繋がりがあることを説いたものです。自らの御祖神も丁重にお祀(まつ)りすることにより、我々を見守って戴ける神々としてお鎮まりになられるのです。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  2. 「○○神宮」「○○神社」の名称について教えて下さい。
     「神宮」「神社」の名称は神社名に付される称号で社号といいます。
     現在、単に「神宮」といえば、伊勢の神宮を示す正式名称として用いられています。また「○○神宮」の社号を付されている神社には、皇祖(こうそ)をお祀りしている霧島神宮や鹿児島神宮、また天皇をお祀りしている平安神宮や明治神宮などがあります。このほか、石上(いそのかみ)神宮や鹿島神宮・香取神宮など特定の神社に限られています。
     これに対して「神社」は、その略称である「社」とともに一般の神社に対する社号として広く用いられています。また、「宮」や「大社」などの社号もあり、「宮」は天皇や皇族をお祀りしている神社や由緒により古くから呼称として用いられている神社に使われます。「大社」はもともと、天孫(てんそん)に国譲りをおこない、多大な功績をあげた大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る出雲大社を示す社号として用いられてきました。しかし、現在「大社」は広く崇敬を集める神社でも使われています。
     このほか、社号とは異なりますが、古くから神様の名前に「大神」や「大明神」、また神仏習合の影響による「権現」といった称号を付して、社号に類するものとして一般的に用いられ、信仰されている社もあります。
     このように神社により社号は異なりますが、それぞれの神社に対する人々の篤い信仰にはいささかの変わりもありません。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  3. 氏神様と崇敬神社の違いについて教えて下さい。
     全国の神社については、皇祖(こうそ)天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする伊勢の神宮を格別の御存在として、このほかを氏神神社と崇敬神社の二つに大きく分けることができます。
     氏神神社とは、自らが居住する地域の氏神様をお祀りする神社であり、この神社の鎮座する周辺の一定地域に居住する人々を氏子(うじこ)と称します。
     元来は、文字通り氏姓の間で、自らの祖神(親神)や、氏族に縁の深い神様を氏神と称して祀ったことに由来し、この血縁集団を氏子と呼んでいました。現在のような地縁的な関係を指しては、産土神(うぶすながみ)と産子(うぶこ)という呼称がありますが、地縁的関係についても、次第に氏神・氏子という呼び方が、混同して用いられるようになりました。
     これに対して崇敬神社とは、こうした地縁や血縁的な関係以外で、個人の特別な信仰等により崇敬される神社をいい、こうした神社を信仰する方を崇敬者と呼びます。神社によっては、由緒や地勢的な問題などにより氏子を持たない場合もあり、こうした神社では、神社の維持や教化活動のため、崇敬会などといった組織が設けられています。
     氏神神社と崇敬神社の違いとは、以上のようなことであり、一人の方が両者を共に信仰(崇敬)しても差し支えないわけです。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  4. 神社本庁について教えて下さい。
     神社本庁は、伊勢の神宮を本宗(ほんそう)と仰ぎ、全国の大多数に及ぶ約八万社の神社を包括する団体です。本宗とは、伊勢の神宮が皇祖天照大御神をお祀りし、ほかの神社と比べて格別なる御存在であることを示す尊称として用いられています。
     昭和二十年の終戦とともに進駐してきたGHQ(連合国最高司令官総司令部)は占領政策の一環として、神社の国家からの分離を目的とした「神道指令」を発しました。翌二十一年に内務省神祇院が廃止され、同年二月三日に神社関係の民間団体であった皇典講究所・大日本神祇会・神宮奉斎会の三団体を母体として、全国の神社と神社関係者を統合するための宗教法人神社本庁が設立されました。
     設立にあたっては、教養が明確化された組織(神社教)の形態をとることなく、各神社の独立性を尊重し全国の神社が独立の組織として連盟を結成する(神社連盟)という考えが基本とされました。
     神社本庁の役割は、包括下の神社の管理・指導を中心に、伝統を重んじ、祭祀、道徳の振興をはかり、我が国の繁栄を祈念して、世界の平安と人類の福祉に寄与することであり、このため具体的な活動としては、①神社神道の宣揚 ②祭祀の厳粛なる執行 ③氏子崇敬者の教化育成 ④本宗である伊勢の神宮の奉賛(ほうさん)と神宮大麻の頒布(はんぷ) ⑤神職養成 ⑥教化図書・冊子の発行頒布を通じた広報活動 ⑦そのほか、神社の興隆発展を図るために必要な諸活動――――などがあります。
     前述のような性格により、他宗教にある統一的な教義といったものはありませんが、敬神崇祖を日常の生活実践としていることから「敬神生活の綱領」を定め、以下の三綱領を掲げております。
    一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと
    一、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと
    一、大御心(おおみこころ)をいただきてむつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄を祈ること
     また、神社本庁・神社の信仰的機能や神職・総代の役割などを明らかにした「神社本庁憲章」が定められ、神道の護持のために必要な精神的規範とされています。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  5. 参拝作法の起源について教えて下さい。
     私たちが人に対しておじぎするときは、普通は一度だけですが、神様を拝むときには「二拝二拍手一拝」の作法が用いられます。
     この作法は、我が国の伝統的な作法である「両段再拝」に基づくものです。「両段再拝」とは、再拝(二度おじぎをする)を二回おこなうことをいいます。実際の作法では、二拝の後に拍手(はくしゅ・かしわで)または祝詞(のりと)奏上をおこない、再び二拝をおこなう場合もあります。
     拍手については、古くから我が国独自の拝礼作法として、神様や貴人を敬い拝むときに用いられました。平安時代、大陸との交流による影響で、宮中ではこの作法をおこなわなくなり、ただ二拝のみをするようになったことが文献に見えます。しかし、神様を拝む際には変わらず拍手が用いられてきました。
     その後、この両段再拝の作法も各流派や神社によって多少の違いを生じましたが、明治八年に編まれた「神社祭式」に「再拝拍手」という形が制定され、これを基本に「二拝二拍手一拝」という参拝作法が慣例化しました。
     神社によっては、今日でも一社の故実により異なった作法をおこなっているところもあり、伊勢の神宮の神職がおこなう八度拝や出雲大社の四拍手などを例として挙げることができます。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  6. 玉串(たまぐし)の捧げ方について教えて下さい。
     神社で正式参拝、御祈禱をお願いした際には、一般的に玉串を捧げて神様を拝礼する作法をおこないます。
     玉串とは、榊などの小枝を用い、これに紙垂(しで)を付けたものです。紙垂には、古来神聖なもの、清らかなものを表すために付けられました。
     玉串の捧げ方は、①神職から手渡された玉串を、②右手で根元を上から持ち、左手で榊の中程を下から支え、胸の高さに捧げ持ちます。御神前に置かれた案(祭事に用いる机)の前に進み出て、一礼をし、③玉串を立て左手を下げて右手に揃え、玉串に祈念をこめたあと、④右手で玉串の中央を下から支え、根元を時計回りに御神前に向け、⑤案の上にお供えします。その後、二回頭を下げ、二回拍手、もう一回頭を下げる、いわゆる「二拝二拍手一拝」の作法で拝礼します。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  7. お賽銭について教えて下さい。
     お賽銭の意味や起源には諸説あります。現在では神社にお参りすると、お賽銭箱に金銭でお供えしますが、このように金銭を供えることが一般的になったのは、そう古いことではありません。
     もともと、御神前には海や山の幸が供えられました。その中でも特に米を白紙で巻いて包み「おひねり」としてお供えしました。
     私たちは祖先の時代から豊かな自然に育まれ暮らし、秋になると米の稔りに感謝をして刈り入れた米を神様にお供えしました。こうした信仰にもとづき、米を「おひねり」としてお供えするようになったのです。しかし、貨幣の普及とともに米の代わりに、金銭も供えるようになりました。
     そもそも米は、天照大御神がお授けになられた貴重なものとされ、人々はその大御恵(おおみめぐみ)を受け、豊かな生活を送ることができるよう祈ったのです。現在でも米をお供えする方もいますが、金銭をお供えすることも、この感謝の気持ちに変わりはありません。
     お賽銭箱にお金を投げ入れるところをよく見ますが、お供物を投げてお供えすることには、土地の神様に対するお供えや、祓いの意味があるともいわれています。しかし、自らの真心の表現としてお供えすることなので、箱に投げ入れる際には丁重な作法を心掛けたいものです。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  8. 「おみくじ」について教えて下さい。
     神社に参拝した際に「おみくじ」を引き、運勢などを占われた方も多いかと思います。
     一般的に「おみくじ」は、個人の運勢や吉凶を占うために用いられているわけですが、種類もいろいろとあり、神社ごとに工夫も窺うことができます。その内容には、大吉・吉・中吉・小吉・末吉・凶という吉凶判断、金運や恋愛、失(う)せ物、旅行、待ち人、健康など生活全般にわたる記述を見ることができます。また、生活の指針となる和歌などを載せているものもあります。
     そもそも占いとは、物事の始めにあたって、まず御神慮を仰ぎ、これに基づいて懸命に事を遂行しようとする、ある種の信仰の表れともいえます。例えば、小正月などにその年の作柄や天候を占う粥占神事(かゆうらしんじ)や、神社の祭事に奉仕する頭屋(とうや)などの神役を選ぶ際に御神慮に適う者が選ばれるよう「くじ」を引いて決めることなど、古くから続けられてきました。「おみくじ」もこうした占いの一つといえます。
     「おみくじ」は単に吉凶判断を目的として引くのではなく、その内容を今後の生活指針としていくことが何より大切なことといえます。また、神社境内の木の枝に結んで帰る習わしもありますが、持ち帰っても問題なく、引いた「おみくじ」を充分に読み返し、自分自身の行動に照らし合わせてみたいものです。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  9. 絵馬について教えて下さい。
     私たちが神社に参拝したとき、祈願の内容を絵馬に記して奉納しますが、これはもともと、神々に本物の馬を供えていたことに由来することです。
     古くは『常陸国風土記』、『続日本紀』(しょくにほんき)などに、祈雨止雨、そのほかの祈願のために生きた馬を献上していたことが見られ、当時から神々の乗り物として馬が奉献されていたことが分かります。
     その後、この代用として馬像や、さらに簡略化された絵馬が奉納されるようになりました。
     古今東西を問わず、馬は人々の生活に深い繋がりをもっており、我が国においても、輸送や農耕、軍用など、あらゆる面で大きな役割を果たしてきました。このことは馬に対する信仰とも結びつき、例えば平安時代に宮中でおこなわれた白馬節会(あおうまのせちえ)は、正月七日に天皇が白馬を御覧になるという行事ですが、白馬が神聖なる「陽」の動物なので、これを見ればその年の邪気を祓うことができると考えられたのです。その後、この行事は各神社においても除災招福の神事として執りおこなわれるようになりました。
     こうした信仰は、神の乗り物として献上される馬とも関連することで、特に献上された馬を神馬(しんめ)と呼びました。後世、神輿が神々の乗り物として主に用いられるようになり、馬はお供えするだけとなりました。
     絵馬には本来、馬の絵が描かれましたが、時代や人々の願いとともに、馬以外の絵も描かれるようになりました。その内容は、祭礼の模様や干支、病気平癒や芸能上達の祈願を絵に現したものなどさまざまです。
     今でも受験シーズンが近づくと、合格祈願の絵馬が多く奉納されるなど、絵馬は人々の祈りの形を現したものということができます。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  10. 祭典参列の服装について教えて下さい。
     一般の方の祭典参列における服装は、正式参拝、また御祈禱(ごきとう)を受ける場合など、特に決まりはありませんが、やはり一定の服装が求められます。日常の参拝とは異なるため、洋装の場合、男性はネクタイ着用が原則となります。また、公共の建築物や大勢の人が参列する地鎮祭・竣功祭や、多人数での参拝の代表を務めるときなどでは、ダークスーツや略礼服がふさわしいかと思います。
     神社の例大祭などでの参列では、一般的には略礼服かダークスーツなどでの参列が望ましいかと思います(女性はこれに準じた服装となります)。和装の場合では、男性の場合が羽織袴、女性の場合が黒留袖や、訪問着等になります。
     また、七五三・成人式の場合、本人は和装や洋装の晴れ着を着用しますが、付き添いの方は本人以上の晴れ着を着用することは避け、平服で参拝することもあります。
     このほか、職業により制服が定められているときには、この制服が正装に準ずる服装となる場合もあります。
     一方、祭典に揃いの法被を着用することがありますが、法被はもともと、下級武士が着た半身衣であり、主君の家紋が施され、看板とも称されていたもので、それが職人などにも広がり、時代が下るとともに祭典にも着用されるようになりました。同じ紋所をつけたものが仲間同士で着用されてきたことから、揃いの法被を着けることにより、祭典に臨んで連帯を図るという意味があるのではないかと思います。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  11. 金品をお供えするときの表書きの書き方について教えて下さい。
     御神前に金銭や食物、お酒などをお供えする際に記す表書きには幾つかの書き方があり、「御神前」「御供」「玉串料」「御榊料」「初穂料」等の書き方が一般的です。「御神前」「御供」という表書きは説明するまでもありませんが、「玉串料」「御榊料」とは玉串や榊の代わりに、また「初穂料」とはその年に初めて収穫されたお米の代わりに、それぞれお供えする料であることを意味します。
     このほか「上」や「奉献」「奉納」と書かれる場合もあります。「上」はよく神様や目上の方に対する御礼の際の表書きに用いられる語です。
     「上」はお神札(ふだ)・お守などの授与品や撤下神饌を入れる袋の表書きにも用いられますが、この場合、撤下品は神前にお供えする際、「上」と記すのであって「上」とはあくまでもお供えをする神様に対して用いられている語ということができます。一方、お神札やお守が御神霊の御加護を戴く尊貴なものなので丁寧さを表現するために「上」を表書きにしていると考えることもできます。
     このほか、神式の葬儀のお供えに関しては「御霊前」や「玉串料」「御榊料」といった表書きが用いられます。市販の不祝儀袋には「御霊前」とあっても、蓮の花の文様が付いている場合がありますが、これは仏式用のものなので注意して下さい。
     表書きには、神事に用いられる以外にも冠婚葬祭を通じてさまざまな書き方があり、自らの気持ちを伝える意味でも大切なものということができます。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  12. 地鎮祭について教えて下さい。
     地鎮祭(じちんさい)とは、建物の新築や土木工事の起工の際などに、その土地の神様を祀(まつ)り、工事の無事進行・完了と土地・建造物が末長く安全堅固であることを祈願するために、おこなわれるお祭りです。
     一般的には「じまつり」などとも呼ばれ、国土の守護神である大地主神(おおとこぬしのかみ)と、その地域の神様である産土神(うぶすなのかみ)、またその土地の神々である「此の地を宇志波伎坐(うしはきます)大神等」をお祀りします。
     地鎮祭は地域によりお祭りの仕方が異なる場合もありますが、基本的な祭儀の流れは神社の祭儀とほぼ同様です。その中でも特徴的なこととして三つの行事がおこなわれます。
     一つは祓(はらい)の行事であり、四方祓(しほうはらい)の儀と称して、祭場四方の敷地を大麻で祓ったり、半紙と麻を切って作った切麻(きりぬさ)などを撒き、祓い清めます。
     二つ目は起工の行事であり、刈初(かりぞめ)の儀・穿初(うがちぞめ)の儀と称して、施主・施工者が忌鎌(いみかま)・忌鍬(いみくわ)・忌鋤(いみすき)などにより、草を刈り、地を穿つ(掘る)所作をおこない、神様に工事の開始を奉告します。
     三つ目は供物の行事であり、鎮物(しずめもの)埋納の儀と称して、神霊を和め鎮めるために鎮物の品を捧げて、工事の無事安全を祈念します。
     土地の神々に敬意をはらい、使用の許しを得て、工事の安全と生活の平安を祈願するという祭りの意味は、まさに日本人の生活習慣における伝統や信仰に基づいたものといえます。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  13. 仏教と神道の葬祭の違いについて教えて下さい。
     仏教と神道の葬祭の大きな違いとは、その霊魂観の相違からくるのではないでしょうか。
     仏教における理想とは、出家し、修行を積み重ね、自らの煩悩を捨てて悟りの境地に達し、死後、人間的苦悩である六道(天界・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)への生まれ変わりから脱して、涅槃成仏(ねはんじょうぶつ)という状態に至ることをいいます。
     悟りの境地に達し得ない人は、亡くなってから四十九日(中陰)を過ぎると六道のいずれかに生まれ変わり、迷いの生を続けねばなりません。
     このため、仏式葬祭では、仏法の加護で故人が迷わず成仏できるよう御本尊に祈り、四十九日の法要などもこのことが中心におこなわれています。本来、それ以後の追善供養をおこなわないのも、成仏した後、故人の霊魂が現世と隔絶した存在になると考えられているからです。
     これに対して、神道は現世(うつしよ)を第一義に考えています。人が亡くなった後も霊魂は不滅であり、祀られて鎮まった“みたま”は、子孫を見守る祖霊となります。こうした考え方により、葬祭では故人の生前の功績を讃え、遺徳を偲び、その後、祖霊祭(年祭やお盆・お彼岸)では亡くなられた方の“みたま”を丁重にお祀りするのです。そこには、故人の霊魂と遺族との直接的な関係があります。現在、仏教の行事とされているお盆などの“みたま祭り”も、本来は仏教と関係なく、日本固有の祖霊信仰に基づくものなのです。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  14. 服忌(ぶっき)について教えて下さい。
     親族が亡くなったとき、身内の者は喪に服しますが、これについて定めたものが服忌制度で、「忌」とは故人の祀りに専念することを、「服」とは喪に従い、死者への哀悼の気持ちを表す期間のことをいいます。
     戦前までは、江戸時代に武家の間で定められた服忌令が公的な制度として用いられていました。これによると父母の場合、忌の期間が五十日、服の期間が十三ヶ月と最長で、親族の範囲により期間が短縮されています。戦後、これは廃止され、官公庁においては職員の服務規程の中で、配偶者は十日間、父母は七日間など忌引き期間を定めていますが、基本的に各地域の慣例に従っているのが現状です。神社本庁では神職の服忌心得として、忌の期間を父母・夫・妻・子は十日間、七歳未満の子・祖父母・孫・兄弟姉妹については五日間としており、服の期間はその人の心得に任せ、それぞれの神社の慣例がある場合にはこれに従うとしています。また忌の間は喪事のみに関わり、この期間が終了したときに神社でお祓いを受けます。
     氏子の服忌について、地域に慣例がある場合はいうまでもありませんが、一般的には五十日祭までが忌の期間で、一年祭(一周忌)までが服の期間とかんがえられているようです。このため、忌の期間である五十日を過ぎれば神事を再開しても差し支えないという例が多く聞かれます。
     忌の期間中は神社への参拝は遠慮しますが、やむを得ない場合は、お祓いを受けて下さい。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  15. 服忌期間中の神棚のお祀りについて教えて下さい。
     忌の期間中は神社への参拝を遠慮しますが、家庭の神棚についても、これと同様のことがいえます。身内が亡くなると、まず喪主は神棚にその方が亡くなったことを奉告し、産霊(むすび)の神の力により現世(うつしよ)に生を得てから、御神恩を受けて生涯を過ごしたことに感謝するとともに、葬儀が無事に執行できるよう祈ります。
     奉告の後、多くの場合には神棚の前面に半紙を貼り、一時的に神棚の祀りを止めます。半紙の代わりに屏風などを立てる地域もあります。この期間については地域により多少の差異がありますが、忌明(きあけ)と考えられている五十日祭までが一般的です。
     このほか、存命中に社頭で病気平癒などの祈禱を受けた場合、親族以外の方が神社に参拝する(代参)か、若しくは遙拜(ようはい)によって、その祈願を解くこともあります。
     身内の方が亡くなられた場合、新年に新しいお神札をお祀りすることを遠慮される方もいますが、神棚は毎年新たなお神札に交換するのが本義ですので、忌の期間が過ぎればお神札を受けて、神棚にお祀りしても差し支えないと思います。もし、年末年始が忌の期間に重なるときには忌明の後にお神札を受けて下さい。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  16. 葬祭に参列する際の服装と、玉串料の水引について教えて下さい。
     神式の葬儀には、通夜祭や告別式(葬場祭)、一年祭までの霊前祭や一年祭後におこなわれる祖霊祭(仏式の法要にあたる)など一連の儀式がありますが、こうした儀式に参列する場合、服装や水引の色などマナー上、いくつか戸惑うことがあるかと思います。
     服装については、友人や知人の通夜に弔問するとき、喪服を着用しないのが本来のマナーです。急いで弔問に訪れたという気持ちを表すためにも、地味な平服(スーツなど)で差し支えありません。ただし、告別式に参列できず、通夜祭だけの弔問になるような場合もありますので、その場合、現在では喪服(男性・略礼服、色無地の羽織袴/女性・黒のワンピース、スーツ、黒無地の和装)を着用することもあります。
     告別式後の霊前祭・祖霊祭については、一般的には一年祭が一つの節目と考えられ、一年祭までを「神葬祭」とし、それ以降の儀式を「祖霊祭」と区分けがされています。
     その式次第の中には、「一年祭(地域によっては五十日祭・百日祭の場合もある)の後、霊璽(れいじ)を祖霊舎(それいしゃ)に遷し、祖先の御霊とともにお祀りする」とあります。故人を弔う儀式から、家の守り神としてお祀りする儀式としての意味合いが強くなるわけですので、服装も一年祭の後からは、男性の場合はダークスーツなど華美ではない服装に、女性もこれに相当する服装となります。また、五年、十年と年数が経るにつれて徐々に平服(スーツ)にしていって構いません。
     つぎに水引ですが、弔事の場合は真結びで結び切りにします。水引の色は黒と白(または黒と銀など)のものを用いますが、服装と同様に一年祭以後(地域により五十日祭・百日祭、または祖霊舎へ合祀の後)から慶事に用いる紅白の水引を用いてもよいとする考え方もあります。これは神をお祀りするのと同様であるとの意味からですが、普通は一年祭以降の祖霊祭でも黒白の水引を用いる事が多い様です。
     神式の場合、白の奉書紙に包み、水引ではなく神事で用いる麻紐も使用しますが、この場合は、慶弔どちらにでも用いることができます。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  17. 神棚を祀る方角について教えて下さい。
     神棚を祀るときには、一般的に南向きか東向きにお祀りします。しかし、西や北向きがいけない理由はありません。これは、我々日本人の方角に対する考え方を見てみる必要があります。
     まず東と西は、日が昇り沈む方角であり、日々の繰り返しの中から、重要なる方角とされてきました。つぎに、南と北の方角は、中国では「天子は南面する」という語に表れているように、北に在って南に向かうことが、君主の地位をするものとして尊ばれてきましたが、我が国でも、この思想的影響を受けながら、古くから祭りなどを中心としたさまざまな儀礼の場において、特に重要な方角として考えられてきました。
     現在、我々が家庭において神棚を設けるときには、こうした考え方に基づき、日が昇る東向きか、陽光が最も降り注ぐ南向きを原則に、家中で最も清浄な場所を選んでお祀りします。これは、神棚が家族や家庭の守りの中心として重要だからです。
     神社も、これと同じように一般的に南向きか東向きに建てられていることが多いようです。しかし、地勢的問題やその神社の特別な由緒から西向きや北向きに建てられていることもあります。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  18. 毎年暮れになるとお神札(ふだ)を新しく替えるのはなぜですか。
     新しい年を迎えるにあたり、神棚を綺麗に清掃して、新たに神社から受けたお神札を神棚にお祀りします。
     神社から受けるお神札には、伊勢の神宮のお神札である神宮大麻、氏神様のお神札、台所にお祀りする竃神様のお神札などがあります。年の区切りにあたるこの時期に、神社から新しいお神札を受けることにより、御神霊の力、恩頼(みたまのふゆ)を戴き、新しい年も家内が無事であるように祈念し、お祀りします。
     今までお祀りしていた古いお神札は、過去の一年が無事に過ごせたことを感謝し、神社にお礼参りをして納めます。このお神札は神社でお焚き上げされます。このお焚き上げを地域によっては、左義長(さぎちょう)やどんど焼きと称しています。
     我が国には古来、親から子へ、子から孫へと、脈々と続く生命の繋がりを尊び、これを発展的に未来へ受け継ぐという考え方があります。こうしたことは、例えば伊勢の神宮でも、二十年ごとに社殿を造り替え、大神様に新しいお社にお遷り戴く式年遷宮(しきねんせんぐう)が、古来連綿とおこなわれていますし、そのほかの神社でも社殿を新造することにより、さらなる御神威の発揚が図られてきました。
     私たちが毎年、神棚のお神札を新しくするのも、まさにこうした考え方によることなのです。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  19. 伊勢の神宮と全国の神社との関わりについて教えて下さい。
     伊勢の神宮は一般的には「お伊勢さま」「大神宮さま」と呼ばれていますが、正式には「神宮」と称し、我々日本人の心のふるさととして古くから親しまれて参りました。
     「伊勢の神宮」とは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る皇大神宮(こうたいじんぐう・内宮)と豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮(とようけだいじんぐう・外宮)の両宮をはじめとして、別宮・摂社・末社・所管社合わせて百二十五社を総称していいます。その中でも内宮の御祭神である天照大御神は皇室の御祖神(みおやがみ)として貴い御存在であるとともに、常に我々国民をお守りくださっている日本の総氏神様であり、全国で約八万社ある神社の中でもその根本となるお社です。しかし神社の場合、寺院などに見られるような本山末寺といった上下の地位を表す関係はありません。
     神道の祝詞の中で古い形態をのこす「大祓詞」(おおはらいことば)の内容は、八百万の神々が集まり、話し合いを重ねた結果、皇孫(こうそん)に豊葦原(とよあしはら)の瑞穂の国(日本の国)を安らかな国として治めるようにと御委任なされたことが記され、天孫降臨に際して国つ神である大国主命が天照大御神の御子孫に国を譲り渡したように、多くの神々との関係においても、それぞれの神々の立場が尊重され、話し合いの精神を以て諸事が決せられていたことが分かります。こうした考え方は現在の私達にも受け継がれている我が国の美風ともいうべきことです。
     この神々の関係は神社についても同様にいえることで、現在、全国の神社の多くは神社本庁のもと、各神社ごとにそれぞれの神々を祀り、お祭りが厳粛におこなわれるようにつとめており、神社界全体としては伊勢の神宮をはじめ、全国の神社の振興を図るための諸活動がなされています。このことからも、伊勢の神宮を格別の御存在として神社本庁が特に本宗(ほんそう)と仰いでいるのは、全国の神社の総意に基づくことといえます。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  20. 神宮大麻(じんぐうたいま) その①神宮大麻について教えて下さい。
     年末年始に氏神様から戴くお神札(ふだ)には、氏神様のお神札のほかに伊勢の神宮のお神札である神宮大麻(じんぐうたいま)があります。
     伊勢の神宮は、皇室の大御祖神(おおみおやがみ)である皇祖天照大御神(あまてらすおおみかみ)をお祀りする神社です。
     氏神様がその地域をお守りなさっている神様であるなら、神宮は日本全国をお守り下さっている総氏神様であるわけです。ですから、例えば氏神様が神明社で天照大御神を御祭神としていても、神宮大麻は、皇祖神であり全国の総氏神様である神宮のお神札として、氏神様のお神札とともにお祀りするのです。
     神宮大麻の起源は平安時代に遡ることができます。元来、神宮は私幣禁断(個人的な祈願を受けない)の神社でしたが、諸国を巡った御師(おし・おんし)の活躍もあって、広く一般の崇敬を集め、大麻の頒布も全国的に広がっていきました。明治以降は皇祖神の大御恵(おおみめぐみ)を戴くための大御璽(おおみしるし)として頒布されてきました。
     また、大麻という名称は、神社でお祓いを受ける際に用いられる大麻(おおぬさ)からきたものであり、大麻を頒布した御師の間でも「御祓」(おはらい)や「お祓さん」といった通称が用いられていたことなどから、御神前に進む際の参拝者の清浄なる心持ちを表したことと考えられています。
     毎年、重ねて御神威の発揚を願うためにも、新年には氏神様のお神札とともに、神宮大麻も新たに戴いてお祀りしましょう。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  21. 神宮大麻 その②歴史について教えて下さい。
     神宮大麻とは伊勢の神宮から毎年全国に頒布されるお神札のことです。神宮大麻の起源は、平安時代末から鎌倉時代にかけて、御師(おんし)という神宮に仕えた祠官により配布された「御祓(おはらい)大麻」にあります。
     御師たちは神宮の神領を中心に全国各地へと赴き、神宮の崇敬を一般に広めるとともに、「檀那(だんな)」「檀家(だんか)」と呼ばれた崇敬者の御祈禱をし、その「しるし」として御祓大麻と呼ばれるお神札を授与しました。
     この御祓大麻とは、お祓いをした大麻(幣帛)を箱型の箱祓や剣先の形をした剣御祓に納めたものです。また「数祓」(かずはらい)といって、幾度となく祓詞を唱えると清めの力が増すとの信仰により、五千度祓・一万度祓といった御祓大麻が頒布されるようになりました。神宮大麻を祓いのための祓具とする考えがあるのもこうした歴史的な事情に基づくものです。
     こうした御師の精励により、江戸時代中期には全国の総世帯数の約九割に大麻が頒布されていたそうです。また、各地に伊勢講と呼ばれる崇敬組織もつくられ、交通事情の発達により庶民の間でお伊勢参りが盛んとなります。
     明治時代以降、神宮に関する制度が一新され、従来の御師による大麻頒布に代わり、神宮司庁(じんぐうしちょう)が大麻の奉製・頒布をおこなうこととなりました。これにともない、大麻の体裁も「天照皇大神宮」の御神号に皇大神宮御璽(ぎょじ)の印が押捺された現在の形に、また名称も「御祓大麻」から「神宮大麻」へと改称されます。
     当初、実際の神宮大麻の頒布は、各府県の地方庁に委託され、区長から神職・氏子へと授与されていましたが、後に、神宮教院、神宮奉斎会、次いで各道府県の神職会への委託へと移行していきました。
     昭和二十一年、神社本庁が設立されると神社界の総意により、本庁が神宮大麻頒布の委託を受けて、それまでと同様に全国の神社を通じて各家庭に頒布する体制が整えられました。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  22. 神宮大麻 その③薄紙で包まれていますがなぜですか。
     この薄紙は、各家庭に届き神棚に納められるまで、決して汚れることがないよう神宮大麻の上包みとして施されているものです。ですからこの薄紙は、神棚にお祀りする際に取り除いても差し障りありません。
     神宮大麻の奉製から頒布に至るまでは、伊勢の神宮において、まず年始にその年の大麻奉製を始めることを御神前に奉告する大麻暦奉製始祭より、大麻用材伐始祭、大麻暦奉製終了祭、そして大麻修祓式をおこない、神宮大麻を祓い清めます。
     また、その年の大麻と暦の頒布を開始することを大御前に奉告する神宮大麻暦頒布始祭と、無事に終了したことを奉告する神宮大麻暦頒布終了祭がおこなわれ、各都道府県の神社庁や各神社においても大麻暦頒布始祭・終了祭がおこなわれます。
     各家庭へは、氏神神社の神職や総代・世話人が頒布しますが、いずれもお伊勢様と各家庭とを結ぶ重要な奉務であることを心して奉仕しており、神宮大麻を受ける家庭においても単なる物品の授受とはせずに、折敷やお盆で戴くのがより丁重であるといえます。
     神宮大麻は、我々日本人の御祖神である天照大御神の御神徳を仰ぎ、その御神恩に感謝するために祀る大御璽(おおみしるし)です。このため奉製から頒布に至るまで常に清浄であることを心掛けて取り扱われているのです。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  23. 皇室と神社のお祭りの関わりについて教えて下さい。
     天皇陛下は日本国の象徴としてさまざまな御公務をおこなわれていらっしゃいますが、その中でもわが国が始まって以来続けられてきた最も大切なお務めは神々のお祀り(皇室祭祀)をおこなうことです。
     皇室祭祀の起源は『日本書紀』の中にあるように、天孫の葦原中津国への降臨に際して、皇祖天照大御神が自らの御魂をこめた宝鏡(八咫鏡〈やたのかがみ〉)を授けて、祀るように命じた神勅によるものといわれています。その後、八咫鏡は伊勢の神宮の御神体としてお祀りされ、またその写しの宝鏡が宮中でもお祀りされました。このため現在においても、皇室と最も縁深い格別なる神社は伊勢の神宮であり、宮中では宝鏡をお祀りする賢所をはじめ、歴代の天皇・皇后・皇族を祀る皇霊殿、八百万の神々を祀る神殿からなる宮中三殿において、天皇御自らによりお祭りがおこなわれています。
     陛下が宮中三殿のお祭りでおこなう御祈願の内容は、お詠みになられたお歌(御製)からも拝察することができますが、我が国の発展と、国民の幸福、五穀豊穣、世界各国の平和といった天下万民のための公の祈りであり、天照大御神をはじめとする神々の御心をそのままにお受け継ぎになられているということができます。陛下のこうしたお手振りを拝して、全国各地の神社では祈年祭や新嘗祭など毎年恒例のお祭りが厳粛に執りおこなわれております。
     このことは皇室と関わりが徳に深い戦前の旧官国幣社といった神社のみならず、各町村の氏神様に至るまで同様に、陛下の我が国の神々に対する御敬神の念を仰ぎ、この精神をもととしてお祭りがおこなわれていることにおいて、皇室の祭祀と全国の神社とは深い結びつきにあるということができます。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  24. 建国記念の日(紀元節)
     二月十一日は建国記念の日であり、「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として国民の祝日に定められ、我が国が国家として成立する際に尽力された先人に対する感謝の気持ちと、こうした努力により建国された祖国への愛国心を育むための日とされています。
     戦前、この日は「紀元節」と呼ばれており、初代の神武天皇が葦原中津国(あしはらのなかつくに・日本)を平定され、橿原宮で御即位された「辛酉(かのととり)年春正月庚辰朔(かのえたつのついたち)」の日を、現行暦に合わせて算定した二月十一日があてられました。
     我が国を建国された神武天皇に対する朝野の篤い崇敬は、近世以降、神武天皇をお祀りする神社創建(橿原神宮)の動きにも見えました。また、明治維新に際して「諸事、神武創業の始めに原(もと)づく」ことを国の方針とした新政府により、神武天皇御即位を我が国の紀元と定めて、明治六年には紀元節が祝日として制定されました。
     戦後、占領政策によって多くの日本の伝統文化が破壊されましたが、中でも国民の祝祭日であった紀元節、明治節(十一月三日)、新嘗祭(十一月二十三日)が廃止されたことは、日本の皇室、国家、国民の結びつきを失わせ、民族のアイデンティティーを見失うこととなりました。しかし占領後、我が国の建国を祝う日の復活を強く願う国民全般の声により、昭和四十一年には二月十一日が建国記念の日として法制化されて復活し、民族意識が回復する端緒となりました。
     私たちが新たな時代に向かって歩んでいくためにも、我が国の基(もとい)を振り返るこの日は、大切な意味を持っています。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  25. 大安や仏滅など日の吉凶について
     よく冠婚葬祭をおこなう日の吉凶をみるときに一般的に用いられるのが、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口という六つの日の吉凶を現した六曜(ろくよう)です。
     古代から明治以前まで、日本では中国の暦の影響を受け、干支や節気を重要な要素として備えた太陰太陽暦を使用してきましたが、この六曜も時刻の吉凶を現すものとして、室町時代初頭に中国から伝わってきました。
     日本に伝わった当初は、小六壬(しょうりくじん)といわれ、大安・留連(りゅうれん)・速喜(そくき)・赤口・小吉・空亡(くうぼう)の六つから成る時刻占いでしたが、江戸時代末に、現在のような形に定着しました。
     明治以降、官暦としての発行を許されたのは神宮の暦だけでしたが、日の吉凶などの暦註が一切省かれたものでした。これに対して民間で出回った偽暦(おばけ暦)には暦註が掲載され、六曜が一般庶民の間に広く普及するようになりました。
     戦後、暦の発行が自由になり、六曜や人の生年で吉凶を判断する九星などを載せた運勢暦が盛んに出されるようになりました。こうした暦の多くは、神々の御加護を戴くために、常に慎みのある生活を送ることを説いており、社会全般的な習俗として我々の生活に潤いを与えてきました。
     六曜の吉凶占いでは、友引に凶事をおこなわない、仏滅は万事を忌むなどの禁忌があります。あまり拘泥しすぎるのは問題ですが、一つの慣習として考えればよいのではないでしょうか。
    ※太陰太陽暦(たいいんたいようれき)
     明治初年まで使われていた暦(旧暦)。明治五年に新暦(太陽暦)に改暦された。旧暦と新暦とではおよそ一ヶ月のずれがあり、新暦は古来日本人の風習や季節感に適合しなかったことから、例えば、七夕を八月七日におこなうなど、現在でも「月遅れ」と称し、一ヶ月遅らせて実施する地域もある。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  26. 神道には仏教でいう盆行事はあるの?
     お盆については、多くの方が仏教の行事と考えているようですが、元来は日本固有の先祖祀りがもとになっています。ところが、江戸時代に入り、幕府が檀家制度により、庶民の先祖供養まで仏式でおこなうよう強制したため、お盆も仏教の行事と誤解されて、現在に至っているのです。
     神道の家庭でも、お盆の期間中は、自宅の祖霊舎を清めて、季節の物などをお供えし、家族揃って御先祖様をお祀りします。
     我が国では、古くから神祀りとともに、御先祖様の御霊をお祀りする祖霊祭祀がおこなわれ、神と祖霊の加護により平安な生活を過ごしてきました。この神とは、自らと繋がりのある御先祖様が徐々に昇華して神となった御存在なのです。
     年中行事で、お盆とお正月が二大行事として重視されるのも、お盆が御先祖様を、お正月が神様をお祀りする行事として、いずれも我々と繋がりのある祖霊や神々をお招きするという意味を持つからなのです。
     ちなみに、仏教行事のお盆は、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典によるもので、仏弟子の目蓮が餓鬼道に落ちて苦しんでいる母親を救うため、釈迦の教えで七月十五日に安居(あんご・修行)を終えた僧侶を百味の飲食(おんじき)を供えて供養したところ、その功徳により母親を含め、七世の父母(七代前の先祖)までを餓鬼道から救済することができたという孝行説話に基づくものです。
     仏教が伝来すると、盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事が諸寺院でおこなわれるようになり、当初は僧侶の供養が中心でしたが、その後、我が国の祖霊祭祀と結びついて、御先祖様を祀る「お盆」となりました。
     現在、地域により七月か、八月の十五日前後にお盆がおこなわれますが、いずれにしても、日本固有の大切な「先祖まつり」の時であることに変わりはありません。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  27. 氏神様の総代とお寺の総代を兼ねることはおかしなこと?
     神社の総代と寺院の総代とでは、その意味も異なってきます。このため、二つを兼ねること自体を矛盾と捉える考えもあるようですが、日本人特有の信仰や歴史的な側面を考えた場合、こうしたことが決して矛盾することではなく、また間違ったことではないことに気づくのです。
     仏教の日本への伝来は六世紀半ばといわれていますが、この時に伝わってきた仏教は、インド発祥の本来の性格とは異なり、中国・朝鮮など経由してきた地域の影響を色濃く受けたものでした。その後、我が国の神祇信仰や祖先祭祀の影響を受け、これを取り入れたために、仏教は日本の宗教の一つとして、広範に普及することができました。これは外来宗教にも寛容な日本人の気質によるとともに、大半の仏教宗派もこれをよく理解し、日本の社会や慣習に沿う形で布教をおこなってきたためであるといえます。
     我々日本人の普遍的な信仰として「敬神崇祖」(神を敬い、祖先を崇ぶ)という考えがあります。これに外れていない教えを説く仏教宗派であれば、神社に対する崇敬と何ら相反するものではなく、兼ねて御奉仕しても差し支えないのではないかと思います。
    ※総代(そうだい)
     氏子または崇敬者のうちの代表的な役で、徳望厚い人物が選ばれ、神社の運営や祭礼などで神職に協力したり、氏子・崇敬者の便宜を図るなどの職務をおこなう。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
  28. 神社ではなぜ数え年?
     年齢の数え方には、お正月を迎えることにより年齢を一つ加える「数え年」と、自分の誕生日ごとに一歳の年齢を加える「満年齢」があります。
     神社で「数え年」を聞かれるのは、我が国では、お正月が各家庭で「年神様」を迎えて、新たな年の五穀豊穣と家族の幸せを祈る大切な行事ですので、その時に合わせて家族皆が一歳ずつ年をとる「数え年」がふさわしいと考えられてきたからです。当初、日本には「零」の概念がなく、生まれた日から一歳で、新年を迎えると二歳になりました。
     「満年齢」の数え方は、明治以降次第に定着してきたものです。明治五年十一月九日の詔書により、それまで用いられてきた太陰太陽暦(旧暦)が太陽暦(新暦)に改められました。これは開国によって、当時広く世界に普及していた太陽暦(グレゴリオ暦)を使用する必要性が生じたためです。
     また、時刻法も一日を十二支にあてて数える不定時刻でしたが、一日二十四時間の定時制に切り換えられるようになりました。こうしたことを受けて、年齢の数え方も「数え年」から「満年齢」へと変わっていったのです。
     旧暦は数年に一度、約一ヶ月の誤差が生じてくるため、年によっては同じ月が二回重なる閏月があり、例えば年によっては五月が二回重なる場合など、誕生日による「満年齢」の換算には適さないものでした。
     しかし、神社では、こうした日本の伝統的な考え方を継承していくことから、現在でも「数え年」を尊重しているのです。
    《「神道いろは 神社とまつりの基礎知識 神社新報社」より》
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